TikTokの面白さ、わかります?

Creepy NutsTikTokを始めた。

 

Creppy Nutsとは、R-指定、DJ松永の2人で構成されるHIP-HOPユニットである。

端的に言えば、わたしはこのグループのファン。

今年の2月に開催されたオールナイトニッポン0公開収録のライブ・ビューイングに参戦したくらいにはファン。

 

そういうわけでCreppy Nutsのアカウントを確認すると、R-指定と松永の自己紹介動画、R-指定がライブ前にタバコを吸っている姿、などのなんてことの無いCreppy Nutsの素の姿を映し出した動画が数本上がっていた。

つまり、ファンが一番喜ぶタイプのアレである。

 

ところでTikTokとは10秒から30秒程度の短い動画を上げるタイプのSNSで、YouTubeほど気負うことなく気軽に、自分の撮影・加工した動画を全世界に発信できることが大きな特徴といえる。

わたしの体感としては、主に10代から20代の若者がよく利用しているかな、と思う。

 

ここからは私のお気持ちである。

TikTokの面白さ、何もわからん。

 

TikTokは、アプリを開くとすぐさまTikTokからのオススメ動画が再生される仕様となっている。

そのオススメ動画ってのが、小気味良い音楽にのせて可愛い女の子がちょっとしたダンスを踊っていたり、オルゴールっぽい音楽に載せて動物の赤ちゃんがヨチヨチ歩いていたり、色々。

 

こ、これがオススメなのか...?

と、わたしはビックリするのである。

これを言ったらお終いじゃん、という話なのではあるが、

だからどうした?犬も食わなくね?の世界なのである。

 

でもTikTok、あのCreepy Nutsがアカウント開設しちゃうくらい流行っている。

何とも不思議なものである。

 

不思議に思ってしまったものは仕方ない。

わたしはこのTikTokの面白さについて、少し考えてみたいと思う。

仕方がないと言ったら仕方ないのである。

 

ちなみにTikTokの読み方は「ティックトック」。
決してチックタックではない。

これは松坂桃李が実際にした間違い。みんなも気を付けてね。

 

 

Twitterは面白い

 

わたしはツイッター歴7年のTwitter大好きっ子である。

Twitterはすげえ面白い。歴史が客観的に証明している。

 

もっとも、Twitterに投稿されるツイートがだからどうした?という内容であることはもちろん否定できない。

例えばキンタマキラキラ金曜日とかいうツイート、内容がゼロ

Twitterには、こんな具合で内容の無いツイートで溢れかえっている。

TikTokにおける動画の質とあんま変わんないじゃねえか?と思うこともしばしば。

 

じゃあ、なんでそんなにTwitterが面白いかって、その本質は気軽に投稿できることにあると思うんですよ。

気軽ってのはつまり、ツイート主のありのままの体験やら思考、感情などをその場で加工なしにリアルタイムで書き込むことができる、ということ。

 

気軽に書き込むことができるからこそ、ツイート主のありのままの姿がツイートの内容にそのまま反映される。そこが面白い。

 

そういうわけで「キンタマキラキラ金曜日」も、ツイート主のありのままの一部であると考えると何だか面白い。というか相当面白い。

お前の頭、マジでどんな構造してんの?うける、となる。

 

みんなちがって、みんないい。Twitterは最高ダナー!

 

TikTokは面白くない

 

しかし、TikTokではそうはいかない。

TikTokは動画を投稿するに当たって、BGMを付ける、動画内に文字を挿入するなどの加工という手順を経る。

そして、加工が施されると加工による操作が入り込み、投稿主のありのままの姿が動画にそのまま反映されているとは、Twitterほど言いにくくなる。

 

動画の加工というプロセスは、動画を面白くする目的で行われる一種の演出である。

そして演出とは動画に限らず、その作品の視聴者の感情を少なからず意識して行われるものである。

例えば、ここでBPMの遅い短調の曲を流して視聴者を悲しい気持ちにさせよう!とか、そんな感じ。

 

そのため演出は、時に視聴者の感情をコントロールしうる有効な手段となりうるけれども、時に「あ、演出を手掛けた人間は視聴者であるわたし達を悲しい感情にさせようと意図しているんだ」と思わせてしまうリスクのある諸刃の剣でもある、といえる。

 

そしてTikTokの動画、演出がまあ安直である。

結局、小気味良い音楽にのせて可愛い女の子がちょっとしたダンスを踊っている動画も被写体である女の子を可愛くみせたいという意図を、オルゴールっぽい音楽に載せて動物の赤ちゃんがヨチヨチ歩いている動画も被写体である動物の赤ちゃんの弱弱しさを引き出したいという意図をヒシヒシと感じる。

つまり、演出がへたっぴ。

 

これこそ、わたしがTikTokの面白さがわからない最大の理由。

俺には何かが足りないのか...?

 

TikTokの面白さ、わかります?

 

そういうわけで、 TikToの面白さの本質ってのは自己顕示欲にあることは勿論のこと、演出者の意図を感じる力を少なからず持っているか、という点に大きく関わっているんじゃないか、って思う。

そのように考えないと、TikTokの面白さをわたしは全く理解できないという結論に辿り着いた。

 

結局わたしは大学時代、演劇サークルに所属していたこともあり、演出者の意図を考える機会が人よりも増え、演出者の視点、演出者の意図を考える力が自然と身についた。

しかし、そんな特殊なサークルにでも所属していないと演出者の意図というものを考える機会がそもそもないのか?10代の若者のなら尚更か? 

そんな突飛な発想をしてしまうくらいわたしは、TikTokの面白さがわからないのである。

 

これがオトナになるってやつか?

 

さいごに

 

わたしは予想するよ。

TikTok、最終的には加工の施されていない動画が絶対に流行る。

 

きっと、TikTokのユーザーもTikTokを利用していくに連れ演出者目線というものを獲得していくと思うんだ、わたしゃ。

そうして、加工がめっちゃ施された動画がダサいという風潮がどんどん広がっていく。

 

Creppy Nutsのアカウントに投稿された動画なんて、まさにそんな感じ。

被写体のありのままの姿を文章以上に映し出すSNSとしてTikTokは今後、発達していくと思う。

 

とまあ、そんなどうでもいいことを思いながら、今日も今日とてわたしはTwitter上で合法的にトビながら遊んでいる、というわけ。

そして、TikTokのユーザーはわたしのブログなぞ目に通すはずもなく、今日も楽しくやっているわけである。

 

つまり所詮わたしは、助演男優。
主演は、TikTok上のお前らだぜ。

\クリティカル~!/

 

 

なぜ中学生はクソダサい中学のジャージを着て出歩くのか

先日、中学のお友達と平泉の中尊寺に行ってきた。

車で約1時間半。ドライブ楽しい。金色堂すごい。

中学の友達は同じクラスでサッカー部の同期。俗にいう青春を共にした仲間ってヤツである。

 

中尊寺には、学ランやらセーラー服を着た若者が沢山いた。

ガイドさんに軽口を聞くお調子者キャラであろう男子、前の集団に追いつくため奥の細道をキャッキャと駆け抜ける女子、集合写真撮影をダルそうに待っている不機嫌そうな男子など、様々な若者たち。

ははーん、これは修学旅行生で間違いはない。

 

彼らは誰の目から見ても明らかなほど、浮かれていた。

無理もない、彼らは修学旅行という学生時代最大級の特大イベントの真っ只中なのである。

 少なくとも、院にはあんなにキラキラした人類はいなかった。えーん。

 

そんな若者たちの姿を見てしまえば、自分らの学生時代を思い出してしまうのも自然な流れ。

わたしたちは帰り道、学生時代にまつわるエトセトラでまあ盛り上がった。

そんな中の信号待ち、街中でたたずむ制服姿の女子高生を見ながら友達はふと、こんなことを言い始めた。

「なんで中学生って私服でも中学のジャージ着るんだろうね。」

 

なぜ、街中の制服姿の女子高生を見て田舎のジャージの中学生の私服を思い出す?全く符合しないじゃん。

だけど、わたしは大きく頷いてしまった。

 

中学のジャージは機能性全振り。デザイン性皆無。ダサい。

これはわたしの地元に限った話では無いと思う。

仮に大学院時代に大学院ジャージなるものがあったとしても絶対に着歩かない。

なんだ?大学院ジャージって。

 

しかし中学生は、さも当たり前かのように中学のジャージを着て出歩く。

そのダサさについて何も気を留めないまま。不思議なものである。

 

思ってしまったのなら仕方がない。

そういわけでわたしは、なぜ中学生は中学のジャージを着て出歩くのかについて考えてみることにする。

 

え?気になるよね?みんな大丈夫?

 

 

中学生には金がない

 

まあ、一番の理由はコレだと思う。誰でも思いつく。

中学生は金が無い。私服を買えない。他に選択肢がない。

よって、中学のジャージを着るしかないと。

 

でも考えてみれば、中学生にもそれなりのはある私服は持っているはずである。

女の子たちと遊ぶ時とか地元の祭りに行く時とかにも中学のジャージ着てた?

わたしは着てないよ。だって、勝負時くらいカッコつけたいじゃん。え?これ私だけじゃないでしょ?

 

そう、中学生も中学のジャージ以外の私服は持っているにもかかわらず勝負時以外の普段時、私服は選ばれないのである。

中学ジャージ、どんだけ汎用アイテムなんだよ。

 

だから、お金が無いという理由は中学生が中学のジャージを着て出歩く理由としてあまり核心をついていないように思う。

そもそも私服なる物、幾らかは両親から買ってもらう機会あるでしょ?

 

そういうわけで、私たちは他の理由を探さなければならない。

わたしは至って、真面目である。

 

わたしの中学のジャージがダサくない可能性

 

何度も言うが中学のジャージはダサい。

なお、わたしの中学のジャージは深い青をベースとして蛍光色エメラルドグリーンの太めのラインが入ったタイプ。

まあ、他の地元の中学のジャージと比べれば、幾分マシな方である。

 

幾分マシ...あれ?

もしかして私の中学のジャージだけがダサくない可能性もあるのか!?

と、一瞬思ったものの、それは無いと思う。

 

結局、幾分マシという話も地元の中学ジャージの中ではという限定的なお話であって、わたしの中学のジャージそれ自体を観察するとやっぱりダサい

現に高校になったら、中学のジャージなんて寝巻に使う以外ほとんどタンスの中に眠っていたわけだし。

 

ってなわけで、私の中学のジャージがダサくない可能性も切れることになる。

考えてみれば、隣の中学のヤツらも隣の中学のジャージ着てたわ。

 

中学生の気持ち、全くわからん。

 

みんな同じで、みんなダメ。

 

いくら中学生の気持ちを考えたところで、わたしは26歳。

多感な時期を生きる中学生の感性なぞ全くわからないし、中学生サイドもてめえなんかにわかってたまるか、という気持ちがあると思う。

 

そこでわたしは、自分が中学生だった頃の気持ちを思い出してみることにした。

あれ?何でわたし中学のジャージを着て出歩いてたんだっけ?

 

答えは簡単だった。

「みんな着ているから。」

デザインがくそダサいとか全然関係ない。

みんな着ているからセーフ。赤信号みんなで渡れば怖くない理論なのである。

 

そしたら、なぜ中学のジャージをみんな着ているのか?という疑問が新たに湧いてくる。

その理由は突き詰めると、きっと「先輩が着ていたから」なんだと思う。

中学生活における先輩ってのは後輩に対しものスゴい影響力を持つ。

先輩の当たり前が後輩の当たり前。運動系の部活であれば、なお当然である。

 

考えてみれば、流行のファッションってのも、流行決めるセンターみたいなところが決めた今年の流行をモデルなどのファッションリーダーが着こなし、それを雑誌などで見た一般人がマネをし、そのマネをしてお洒落になった一般人をさらに一般人がマネをするというトップダウン方式で社会に定着する。

 

あれ?中学生も同じじゃね?

先輩って実質ファッションリーダーじゃん。それを運動系の部活の後輩たちがマネをする。そして、そのマネをした後輩の同級生たちがマネをする、と。

あれ、いつの間にか中学のジャージをみんな私服で着るようになってしまった!

こんな流れである。

 

なお、運動部の同級生が持つ運動部に所属していない同級生に対する影響力もそれなりのものがある。

運動部の同級生って何かとクラスの主要キャラだし。

 

え?それじゃあ中学生活における流行決めるセンターってのは何だよって?

そりゃあ、先輩の先輩ですよ。

現時点で最高学年の先輩たちも、1年前は2年生で後輩の立場。

1年前は現在最高学年の先輩も後輩の立場でこのトップダウン方式に組み込まれ、中学のジャージが当たり前のファッションということを刷り込まれるのである。

 

無論、先輩の先輩も同じ。

先輩の先輩も、先輩の先輩の先輩の後輩なのであるから。

つまるところ毎年、同じ流れの繰り返し。

 

こうしてクソダサ中学のジャージが当たり前のファッッションであるという中学生特有の文化が脈々と形成されてきた、というわけである。

 

はーあ、みんな違ってみんなダメ。

 

さいごに

 

思い出してみると、中学のジャージをお洒落に着こなす方法みたいなものもあったな。

ズボンのすそを広げてみるとか、袖口を破ってみるとか、名前の刺繍を一部崩してみるとか、色々。

 

中学生特有の文化、やっぱり謎である。

これ、どこの地域でも一緒なのかな。普通に気になる。

 

とかいう私は、担任がサッカー部の顧問で生徒指導役みたいな立ち位置の先生だったから、ちゃんと真面目に着こなしていたよ。えらいね。

 

まあ、そんな勇気もなかったんだけど。根が真面目だからね。

 

 

おやじギャグを言う人間の心理

 

「ふとんがふっとんだ」

 

おやじギャグの元祖、誰もが知っている代表的なおやじギャグである。

おやじギャグ界のペレ、もしくはベーブルースと言ったところか。

他のペレ級のおやじギャグとして、「電話に誰もでんわ」「アルミ缶の上にアルミ缶」などの例が、すぐさま思いつく。

 

考えてみれば、おやじギャグ、どこに面白さを見出せば良いのかわからない。

同音異義語を1つ文章の中に意味のあるよう当てはめた、ただそれだけ。所謂くだらないお笑いってヤツである。

 

しかし、この社会にはおやじギャグばかり言っている人間が一定数、存在する。

もしや、社会の中でわたしだけがおやじギャグの面白さを理解していないのか?いや、そうじゃ無いでしょ。

その理由は「おやじギャグ」という呼び名の「おやじ」の部分から明らかである。おやじってのは結局、おっさんと同じ意味。

おっさん、社会から嫌われているでしょ?

 

だから、おやじギャグは社会からそれほど良い印象を抱かれていないんじゃないか?と、わたしは思うわけ。

何とも不名誉なネーミングである。ぴえん。

 

おっさんが嫌われている理由はこの記事を参照。

happylucky77.hatenablog.com

 

そこで私にはひとつ疑問が生じた。

おやじギャグを言う人間の心理って何なん?

だって、面白くないんだよ!面白くないギャグを繰り返す人間、よくわからんでしょ。

 

てなわけで、わたしはおやじギャグを言う人間の心理について、少しばかり考えてみることにした。 

疑問が生じたら考察を加える。当然の流れ。

これぞまさしく当たり前田のクラッカー。ガハハ。

 

 

おやじギャグを言ってしまう動機

 

おやじギャグ、どう考えてもやっぱり面白くない。

大事なことなので沢山言うことにしました。許せサスケ。

布団が吹っ飛んだ?だからどうした。

 

だから、視点を変えておやじギャグを言ってしまう動機について、わたしは考えてみることにした。

まあ、当の本人らはそんな深いこと考えてはいないだろうけど。

 

ところで、おやじギャグを言ってしまう動機ってのはおそらく創作と関係している

創作欲は人間の本能だからね。

創作が嫌いって人はきっと完成を目指す作品に対しての理想が高すぎるだけだよ。

 

何かを作るって基本的には面白い作業なんですよ。

もっとも、何かを作る作業を面白いと感じていたとしても、その作業によって作り出された作品が面白くあるとは限らない。

しかし、作品を完成させたからには周りの人間に見てもらいたい気持ちあるよね?

 

つまり、おやじギャグを言ってしまう動機ってのも同じで、ふと閃いてしまったおやじギャグ、みんなと共有したい!という気持ちにあるのではないか?との仮説が立つ。

内容が面白いか否かなんて関係ない、ただシェアしたいだけ。

おやじギャグを閃いた時点でもう楽しいのである。

そのように考えると、おやじギャグを言う本人は楽しそうで聞かされた側は失笑するしかない、という状況がよく発生するってのも理屈が通る。

 

こりゃあ、上手くいかないわけだ。 

 

選ばれたのはおやじギャグでした

 

創作ってその作業から得られる満足感は大きいものの、時間がかかったり一定のテクニックが必要だったりする。

そのため、創作欲が人間の本能であるにもかかわらず、ある程度避けられがちであると。

 

しかし、おやじギャグは誰でも閃きで簡単に、秒で作ることが出来る。

何らかのテクニックも必要ない。しかも思いついた途端、すぐさま世に送り出すことが出来る。

なんてお手軽なんだ、おやじギャグ。そりゃあ、数も重なるわけですわ。

 

そういわけで、おやじギャグを言うことは人間の本能である創作欲を簡単に満すための手段なのではないか?という仮説もたつ。

創作欲を満たすため選ばれたのはおやじギャグでした、というわけ。

 

しかも、人間は年を重ねるに連れ、ある言葉から似たような響きの言葉を連想する能力がどんどん発達してくるらしい

「おやじギャグ」はおやじの脳の暴走だった?~チコちゃんに叱られる! | 50男の気になるキーワード (takumi-inv.com)

 

あーあ、何も脳の方までおやじギャグ言いたがらなくていいのに。

なんとも困ったものである。

 

おやじギャグばかり言う人間に幸あれ

 

おやじギャグを言う人間は社会からそれほど良い印象を抱かれてはいない。

それもそのはず、おやじギャグを言う人間はおやじギャグを放たれた人間側の気持ちへの配慮に欠けているから

見事におっさん論理である。

 

しかし、おやじギャグを言ってしまう心理は少しだけわかる。

思いついたおやじギャグ、速攻で口に出したいよね。

私もすぐツイッターで呟いちゃうもん。

 

つまり、これが許されるどうかはともかく、おやじギャグを言う人間っておやじギャグを放たれた人間側の気持ちを考える前に思いついたおやじギャグが口に出ちゃっているんですよ。

例えるならば暴走乾電池。

法学的に言うと規範に直面する前に実行に移している状態。

故意責任を問えないねえ、わたし無罪!

 

まあ、お前は我慢ってものを知らねえのか!!と言われればそれまで。

重過失犯。おやじギャグを言う人間サイドは全面降伏するしかない。

 

ってなわけで、わたしとしてはおやじギャグを言う人間に幸あれという気持ちなのである。

悪気はないのは知ってるぞ、おやじギャグを言う人間。

ちょっとだけそこに気を付ければみんな楽シイタケ!という話なのである。

 

さいごに

 

おやじギャグを創作と表現するのは、創作活動を生業にしている人間に対し失礼か?とも思った。

しかし、おやじギャグを創作ではないと表現するのはおやじギャグ側に失礼ではないか?とも思った次第。

まあ、考えてみたら創作を生業にしている連中なんておやじギャグなんか眼中にないか。

いらねえ心配。そりゃそうか。

 

あ、ちなみにわたしがTwitterで呟いたおやじギャグは、

「おーれーはじゃいあーん!かえりたいよう...。」 

と、いうもの。

 

意外と面白いのでは?全然意味わかんないけど。

 

 

偏差値40の底辺私立高校にいた「受験の神様」の話

わたしの高校には「受験の神様」と呼ばれる当時88歳のおじいちゃんがいた。

通称「神」

偏差値40の私立高校に受験の神様がいたのである。

 

え?受験の神様がいるにもかかわらず高校の偏差値40なの?と思うかもしれない。

 

しかし、受験の神様が「受験の神様」と呼ばれる理由は存在した。

それは、AO入試にめちゃくちゃ強いこと

 

わたしが高校2年生の時、私の高校は北海道大学水産学部AO入試合格者5年連続輩出という大記録を打ち出した。

しかも、5年目には5人(全体の合格者数の約1/3)を合格させるという大快挙。

 

偏差値40の底辺高校の学生が偏差値約65の旧帝大学の入学を決めるって、ジャイキリもいいとこなんですよ。しかも、それを5年連続。

鹿島がマンUを5年連続で撃破するくらいスゴい。柴崎ー!愛してるぞー!

 

そんで、この大記録を私の高校にもたらした第一人者こそ「受験の神様」と呼ばれる人間であった、と。

記録だけ見ればめちゃくちゃスゴいのである。

 

でも、この「受験の神様」とやらが、私の大学受験をまあ苦しめた。

まあ、それもそのはず、

 

私こそ6年連続合格記録を断ち切った張本人なのだからな!ガッハッハ。

 

そんなわけで私は、受験の神様についての記憶が今でも強く残っているというワケ。

あれれ~不思議だな~、どんどん筆が進んじゃうゾ~!

 

ちゅーわけで前置きはさておき、わたしは以下でこの私の高校にいた「受験の神様」の話を少々ばかりしていこうかと思う。

 

もう10年も前の話か、懐かしいねえ。

 

 

「受験の神様」のビジュアル

 

神のビジュアルは、簡潔に言うとナメック星人そのもの。

肌色のナメック星人である。この時点でもう「神」。

 

しかも、身長が175㎝くらいあり、いつも実験用の白衣を着用していた。

常人ならぬ雰囲気。実験用の白衣を着た肌色のナメック星人の完成である。

 

そういえば、神が授業を担当し始めた当時、「神」が学生用のトイレでおしっこをしている!と、クラス内でちょっとしたニュースになったことを思い出した。

 

いや、いくら神でも人間なんだから小便くらいするだろ...。とは大人になったから今だからこそ思えること。

それくらい神のビジュアル的なインパクトは凄まじかったのである。

 

そして、この神という通称は生徒間だけで用いられていたものではなく、教員の間でも用いられていた通称であった。

全然、○○先生の授業とか言わない。神の授業。神の授業かあ。

 

今考えると当時、教員間でも「あいつは常人じゃねえ、神」みたいな共通認識があったんだろうな。

 

なんせ職場に合格実績をもたらす肌色ナメック星人、神と言わずに何と呼ぶ。

 

「受験の神様」の授業スタイル

 

気になる神の授業スタイルは1コマ45分間ずっと話し続けるというストロングスタイル

その内実は簡単に言うと、AO入試における小論文対策の名の下、神の人生経験に基づく教養の詰まった話をひたすら頂戴する、というもの。

 

例えば、神が子どもの時の疎開していた頃の話とか、昔の教え子を科学オリンピックに連れて行った話とか、東日本大震災が魚に対してどのような影響を及ぼすとか、とか内容は様々。

今思えば、神は生物学、特に水産関係の方面に強かったんだと思う。

 

88歳のおじいちゃん、45分間ずっと話し続けるんだぜ?スゴくね?

しかも、高校生にはちょっくら退屈ではあるものの、すげえタメになる話。

 

普通の88歳ではない。やっぱり神には「神」と呼ばれる理由があるのである。

ああ、この人について行けば北大の水産学部なんて余裕で受かるんだろうな、そんな気まで起こさせてくれるほど、神の話は魅力的だった。

 

しかし、私には水産学部への進学をためらわせる重大な問題があった。

わたしは泳げないのである。海、ちょー怖い。

 

しかも、水産学部って海上実習なるものがあるらしいぜ?

そんなもの、カナヅチにとって地獄以外の何物でもないじゃん。

 

てなわけで、私はどうにか水産学部への進学を回避するため、通常入試の道で頑張ろう!勉強しなきゃ!と思い立ったわけである。

 

しかし、なんと私の高校、神の授業をカリキュラム上の生物や化学などの理系科目の時間に行っていた。改めて意味が分からん。

 

すると、どうなるか。

理系科目の授業が実質的に無くなる。

というわけで、わたしはまともに理系の授業を受けたことが無い。

モル濃度とか、ニュートンとか、何のこっちゃである。

  

そんなわけで、このままセンターを受けてもしょうがないと思ったわたしは、神からの度重なる説得もあり、水産学部AO入試受験を渋々渋々渋々ながら決めた。

 

そりゃあ、落ちるわな。面接官には、ぜーんぶお見通しだったてワケ。

ウナギ食べ放題の店作りたい、とか面接で言わなきゃよかったな~。 

 

「受験の神様」から学んだこと

 

はっきり言おう。ほとんどない。

 

当時のわたしも、最終的には毎週ウンチクを語りに来る謎のナメック星人くらいにしかマジで思ってなかったし、今でもその思いはさほど変わらない。

地球の神はナメック星人なので多少は許してほしい。

 

まあ強いて1つ挙げるとしたら、

自分の人生は、自分の力で切り開いて行かないといけない。

ということである。

悲しいほど逆説的だね。

  

まあ、中島みゆき

 「その船を漕いで行け、お前の手で漕いで行け
 お前が消えて喜ぶ者にお前のオールを任せるな」

 って言うんだから間違いねえわな。

 

大事なこと教えてくれてありがとな、神もといナメック星人

せんきゅー、地球より愛をこめて。

 

さいごに

 

結果論ではあるが、わたしは北海道大学に入学しなくてラッキーだった、と本気で思っている。

別に強がりでもなんでもなく、海が怖いのは勿論、山形で出会った人間が最高すぎた、という話なのである。

 

受験の神様がもしマジモンの神だったら、わたしは今頃、漁師になっていたかも知れなかったなー、あぶねー。

人との出会いは一期一会、何が功を奏するかわからんもんですなあ。

 

あ、そうだ。

なぜ神が水産学部のAOに強いのか。その理由は毎年、神が書いたレポートをそのまま丸写しして提出していたから。

 

受験の神様の正体とはいかに。謎は深まる一方である。

 

あいさつはログインボーナスなのでコスパが最強という話

SEIYUのトンカツ弁当、とてもコスパが良い。

 

「やっぱコスパ

スーパーマーケットチェーン合同会社西友(SEIYU)の有名なキャッチコピーである。

  

コスパってのは、言わずもがな「コストパフォーマンス」の略語で、もうちょい固く表現すると費用対効果、ということになる。

 

SEIYUの商品、めちゃくちゃ安い。そして、ウマい。

だから、SEIYUコスパ最強!ということになる。早く青森にも出店しろ。

 

お金がない状況において、コスパの良し悪しは特に重要である。

つまり、費用対効果における「費用」であるお金が手元にほとんど無いとき、コスパを意識することによって、何も考えずに飯を買ったときと比較して、高い「効果」である美味しいトンカツ弁当を買うことことができる、という算段である。

普通298円でトンカツ食えないだろ、まじすげえわSEIYU。

 

そこでわたしは、ふと考えたのである。

費用を最小限にして、最大限の効果を発揮するものっていったい何だろう?と。

 

トンカツ弁当のコスパはとても良い。めっちゃウマいし。

しかし、トンカツ弁当には298円の「費用」がかかる。

費用が最小限に留まる、と言うためには費用がほぼゼロと言えなければならない。

そんなもの本当にあるのか?

 

私はそれを見つけてしまった。「挨拶」である。

おはようございまーす!とか、ちょりーす!とかの挨拶である。

決して、局所的タイフーンの話ではない。木下優樹菜さんは元気かしら。

 

そういうわけで突然だが、以下で「挨拶」のコスパがいかに優れているか?について説明を加えていきたいと思う。

 

早速ですが、コスパを意識して元気よく...

 

\よろしくお願いしまーす!/

 

 

挨拶にかかる「費用」について

 

あいさつ、費用がほぼゼロでしょ。

 

挨拶とは、デジタル大辞泉によると

人に会った時や別れるときなどに取り交わす礼にかなった動作や言葉

 

を、言うそうな。

堅苦しい表現ではあるが、イメージは「おはよう」とか「さようなら」とかの日常会話を指しているんだと思う。

 

つまり挨拶ってのは、10文字にも満たない文字列の群を声に出すだけ。ガキんちょにも出来ちゃう。

何なら大人よりもガキんちょの方が挨拶をしてくれる。

ガキんちょはとても偉い。

 

さらに、会釈も挨拶に含めるとしたら、なんと相手と目を合わせ、少々ばかり首を傾けるだけで出来ちゃうのである。

声を出す必要すら無い。これ、費用がほぼゼロといっても過言ではないでしょ。

 

まあ強いて言うなら、朝の挨拶は多少しんどい。

わたし自身、朝にめちゃくちゃ弱い。1コマは死んだ方が良い。中原先生ごめんなさい。その気持ちはとてもよく分かる。

 

だけど、これも「多少」しんどいだけという話であり、「すごく」しんどい、というワケでもない。

依然として声をだすだけ、首を少し傾けるだけのお話である。

 

え?辛いかつらくないかなんて人それぞれじゃん、てか?

 

うるせえ!!声くらい出してみやがれってんだ!!!

 

わたしはそんなことを思うのである。あー、こわいこわい。

 

挨拶によって得られる「効果」について

 

実はね、挨拶ってめちゃくちゃスゴいんですよ!

まずね、挨拶を交わした相手との仲良し度が上がっちゃう。

 

知らない誰かと仲良くなるということは骨が折れる、実際なかなか大変な作業なわけですよ。

でも、挨拶をされると単純に嬉しくない?

この人仲良くなれそうだな、と思わない?

 

ほら、その時点で仲良し度すでに上がってるじゃん!

ほーんの少しだけれども!プラスの効果しかない!

しかも、挨拶ってすればするほど仲良し度の向上率が上がるんですよ!

実質、メトロノームじゃん!

 

実は挨拶のスゴい所、まだまだあるんですよ。

それはなんと、挨拶をされなかった相手方の不快な気持ちを避けられる所!

 

顔見知りの人間とすれ違ったのに、挨拶しても挨拶を返してくれない状況ってめちゃくちゃイヤじゃない?

わたしが挨拶厳格主義なだけか?いや、違うでしょうよ。

 

こんな状況も挨拶ひとつすれば万事解決!

挨拶をされなかった相手方の不快な気持ちを避けられるどころか、挨拶によって生ずる仲良し度向上の恩恵まで受けられてしまうのである。

 

挨拶ってすごいなあ、うんうん。

 

あいさつはログインボーナス!毎日ログインしよう!

 

というわけで、挨拶ってのは費用がほぼゼロにもかかわらず高い効果を獲得できる極めてコスパの優れた行動ってなわけ。

 

これ何かに似ているなーって思ったら、

ソシャゲの ログインボーナス。これ、めちゃくちゃ似ている。

 

ログインするだけで、何かしらゲーム内で役立つアイテムが貰えるログインボーナス。

「費用」はログインするだけだからほぼゼロだし、アイテムという「効果」も獲得できちゃう。

ほら、挨拶もログインボーナスも同じ構造じゃん!人生というゲームのログインボーナス!毎日ログインしようよ!

 

そういう風に考えると、挨拶をしないのはもったいないって感じることない?

ソシャゲのログインボーナスは欠かさず貰うのに、挨拶しないのって何かおかしくない?

 

だからこそわたしは、挨拶をしたのに挨拶を返してくれない人間を目の当たりにすると「信じられねえ、なんだコイツ!」という感情を抱くというワケ。

 

こうやって聞くと挨拶ってすげえと思うでしょ。思うよね!!!

 

さいごに

 

ってなわけで、挨拶は実質ログインボーナスなので毎日ログイン挨拶するべきなのである。

 

ちなみに私は今日、ログインボーナスで謎の罠カード「隠れ兵」を貰ったよ!

こんなの絶対デッキに入んないよ!速攻で罠石に変えてやったわ!!

 

...あれ?ログインボーナスで貰えるタイプのアイテムってもしかして....。

 

現実って非情なのかも知れないなあ。

 

 

何でおっさん、あんなに嫌われてるの?

 

先日、わたしは高速バスに乗り東京へ向かった。

予約したのは4列シート。3列シートタイプとは違って、となりの席の人間との距離がめちゃくちゃ近いタイプ。片道3500円。お金ないね。

 

隣の席は、わたしよりも少し若いくらいの大学生かな?と思われる知らねえ男の子。

おかげさまで東京までの約5時間、少しだけ腰を痛めたことを除き高速バスライフを快適に過ごすことが出来た。

 

ここで私は思った。

あー、隣が知らねえおっさんじゃなくて良かったなって。

知らねえおじさんが何かしたわけでもない。

別にトラウマだってありゃしない。

だけど、知らないおっさんが隣ではない事実にわたしは確実に喜んでしまっていたのである。

知らないおじさん、とってもかわいそうなのである。

 

考えてみれば、おっさんとかいう生物、何かと嫌われがちな生き物である。

 

しかも、その理由はおっさんだから。

知らないおっさんに対してもマイナスの感情が湧くんだから、おっさんが嫌わている理由はおっさんがおっさんの見た目をしているから、ということに他ならない。

おっさんカルマ、なんて不条理なんだ。

 

なーんてことを考えていたら、わたしは怖くなった。

わたしは26歳、あと20年も経てば勝手におっさんになる。

 

いやだ!なぜ歳を取るだけで勝手にそんな不条理カルマを背負わなければならないんだ!そんな義理はねえぞ!!!

 

というわけで突然も突然だが、わたしはおっさんを救ってみることにした。

おっさんを救うことは、将来の自分を救うことにもなる。みんなハッピー!

お節介といわれてもやめないもんねー。べー。

 

そいうわけで、まず手始めにわたしは、
おっさんが嫌われている理由を考察することから始めてみることにした。

理由が明らかになれば有効な救済策も立てられること請け合いである。

  

 

まず、おっさんって何よ?

 

おっさんが嫌われている理由を考察するに当たって、まず最初にすべきことは「おっさん」って何よ?という疑問に応えることである。

 

おっさんとは、デジタル大辞泉によれば、

おじさんの音変化であり、中年の男性を親しんで、また、軽く見て呼ぶ語

 を、言うらしい。

 

は?このくらい知ってるわ!!!

 

何の説明にもなっていない、形式的な説明である。

まあ、仕方もない。デジタル大辞泉はおっさんを救うために用意されたのではない。当然である。

 

しかし、わたしはおっさんを救うためには、おっさんとは実質的に何か?という問いに答えなければならない。

つまり、おっさんを表層的ではなく深く理解することによって、初めておっさんを救うことが出来るではないか?という算段である。

 

 ...おっさんを深く理解する?なんだそれ。

 

まず、おっさんって何よ?改

 

おっさんを深く理解するにあたって、手始めにわたしがなぜ、高速バスの隣がおっさんじゃなくて良かったのか?ということを考えていきたい。

 

考えてみると、理由はシンプル。

おっさん、だいたい挙動がうるさい。

 

おっさんって何かと挙動がうるさいんですよね。

極めて狭い高速バス内でめちゃくちゃ動くし、音をたてる。普通にイライラしちゃう。

もっと言うなら清潔感がないし、ナゾの匂いがたまにする。意味がわからん。そんなイメージ。

 

あれれー、おかしいなあ。

わたし、本当におっさんを救えるのか不安になってきたぞ...。

 

まあ、本当に救えるのかどうかは兎も角、

隣におっさんが座るのが嫌だった理由をつき詰めると、

他人(今回はわたし)への想像力を欠いた行動を採ることに対して嫌悪感を感じていたんじゃねえか?

という、ひとつの仮説が立つ。

 

高速バス内では出来るだけ動かない、とか音をたてない、とか暗黙のルールがあると思うんだけど、

このルールの趣旨って平たくいえば、「他の乗客に迷惑をかける行為は出来るだけ慎んでください」っちゅーことに尽きると思う。

おっさん、このルール無視しがち。

ちゅーわけで、おじさんが隣に座るのが嫌であったと。

 

そんでもって、この他人に迷惑をかけないという暗黙のルールは、高速バス内に限らず社会一般でも通用するルールである。

そして、清潔感を保つとか、匂いに気をつかうとかは、自分の努力だけではどうにもできない側面はあるものの、ある程度のレベルまでは自分の努力でどうにか出来るんじゃね?という話。

 

というわけで、私の中で「おっさんって何よ?」という問いに対しては

他人への想像力を欠いた行動を取る人間

という答えに到達した。

 

おっさん、罪な生き物である。

 

何でおっさん、あんなに嫌われてるの?

 

何で?ってそりゃお前、

他人への想像力を欠いた行動を取る人間、普通にイヤでしょ。

 

おじさんとは何か?を実質的に考察したら、答えが自ずと明らかになってしまった。謎コンボ発生。

 

しかし、この考察によって明らかになったことがある。

それは、おっさんが嫌われている理由の本質は、他人への想像力を欠く精神性にあり、決して年齢を重ねているという事実のみに由来しているものではない、ということである。

 

これ、めっちゃ朗報じゃないすか?

ある程度は自分でどうにか対策できるじゃん!やったー!!

 

だけど、考えてみたら不思議なものである。

おっさんが嫌わている理由の本質は、他人への想像力を欠く精神性にあるにもかかわらず、おっさんは、おっさんという見た目をしているだけで社会から嫌われているのである。

これはナゼか。

 

答えは簡単。それはイメージである。

わたしたちの脳裏には無意識に、おっさんの見た目をしている人間は他人への想像力を欠く生き物であるというイメージが既に焼き付いてしまっているのである。

 

イメージはひとつひとつの事象の集積によって作り出される。

「関西人はおしゃべり」とか「九州人はおおらか」とかの一般的なイメージも、多くの関西人や九州人と接し、導かれた共通項に基づき形成されている。

 

おっさんの見た目をしている人間は他人への想像力を欠く生き物であるというイメージも、きっと同じである。

つまり、おっさんの多くはきっと、他人への想像力を欠く生き物なんだと思う。

 

そうであるからこそ、知らないおっさんに対してもわたしは(わたしに限らず)、「ああ、この人も、他人への想像力を欠く生き物である」という推定が働き、おっさん嫌い!という気持ちになっていた、というワケ。

 

無論、おっさんの見た目をしている人間すべてが他人への想像力を欠くという訳ではない。

しかし、多くのおっさんが他人への想像力を欠く生き物あるからこそ、おっさんが社会的に嫌われている!という話。

 

おっさん、連帯責任なのである。

 

さいごに

 

結局、世のおっさんはイメージに基づく推定を理由として嫌われているに過ぎないということである。

ほんと、あなたのせいじゃない。どうにだってなるよ、きっと。

 

それじゃあなんで、多くのおっさんは他人への想像力を欠く傾向にあるんだろうね。

 

正直、今のわたしにはわからん。

20年後になったらわかんのかなあ、全然わかりたくねえなあ。

 

こんなことを書いていたら、わたしは高速バスに乗っていた時、休憩所で購入した肉まんを食べたことを思い出した。

そういや、肉まんってめっちゃ匂いするじゃん。

 

隣に座った知らねえ男の子ごめん。

世のおっさんもこんな気持ちなのかな。

 

 

 

わたし達はおっさんになっても「Butter-Fly」を歌うのか

時を戻そう。大学1年生の4月、わたしは同じ学部学科の男女6人ほどでカラオケに行った。

大学1年生の4月の頃なんて、てめえの名前と顔しか知らねえ状態よ?いや、名前ですらあやふやな状態だろ。

すげえよな若い力って、佐伯孝雄もビックリだと思う。

 

そんな中、1人の男が和田光司の「Butter-Fly」デンモクに入れた。 

言わずと知れたアニメ「デジモンアドベンチャー」のOPテーマ。20代なら知ってるよね。

 

すげえ盛り上がった。わたしは正直おどろいた。

ああ、わたし達の世代でも皆で歌って盛り上がれる曲があるんだな、と。

 

 

改めて考えてみると、同世代の知らねえ人間どうしが盛り上がれる楽曲があるってすごいことじゃね?

大学1年生の4月、何ら人生の歴史を共有していない人間らの心がひとつになるんですよ、シンプルにヤバい、バイブスが上がる。そしてお前らは誰だ。

 

そこで、私は考えた。


わたし達はおっさんになっても「Butter-Fly」を歌うのか?

 

何で急にこんなこと考えたのかっていうと、おっさんがBPM早い曲歌ってるの聞いたことあるか?わたしは良くて、星空のディスタンスくらいしか聞いたことが無い。とってもベイビーカムバックである。

 

しかも、おっさんがゴキゲンな蝶になって、きらめく風に乗っているのヤバくね?」

ただの酔っぱらいじじいですやん、めちゃくちゃシュール。

 

思ってしまったのなら仕方ない。わたしはこの問題について考えてみることを決めた。

えーん、Butter-Fly大好きだよう、おっさんになっても歌わせてくれい。

 

 

「みんなが知らない曲は選曲しない」という不文律

 

え、ありますよね?この不文律。

みんなが知らない曲なぞ選曲しようものならば、白い目で見たるぞー!的なアレ。

多分これ、全世代の共通認識としてあるんじゃね?

 

だから、知らない人間とカラオケに行くときは、特に選曲に気を使う。

絶対にMr.ChildrenのシングルB面の曲とかWACKの曲なんて絶対に入れないんだから!!!!酒が入った場合は知らん。

 

でも、いざみんなが知っている曲を選曲しようと考えたとき、自分の手札にそれほど切れるカードがないことに気づく。

あれ?わたしたちの世代ってみんなが知っている曲そんなに無くね?ORANGE RANGEなんて、そう何曲も連続して入れるもんでもねえだろ...と。

 

みんなどうしてんの、こんな時?

わたしは「爪爪爪」を歌って全部イーブンにする。終戦争、手札5枚捨てまーす。

 

 

上の世代の方が選択肢、多いことない?

 

私たちの世代よりも、テレビが超強い時代を長く生きてきた上の世代の方が「みんなが知っている曲」が多いと思うんですよ。

理由は簡単。テレビが超強いから。テレビから供給される情報が最強時代ということになる。テレビから供給される情報が全て。えっへん!

 

それに比べてわたし達の世代ってテレビ超強い時代をあんまり生きてきてないんですよね、むしろネット超強い時代の方が長く生きている。

 

でも、ネットが超強いからといって、テレビが超強いのとはワケが違う。

そもそも、ネットのすごい所って、各個人がそれぞれ自分の表現したいものを届けられる環境が整ったところにある。テレビ局を介さなくともね。

 

そして、テレビから供給される情報以外の色んな情報がネットを介して私たち受け手の下に届くようになった。

そのため、情報の受け手は、様々な発信源から供給された情報を取捨選択することが可能となった、っちゅーわけである。

 

そう、つまり

テレビから供給される情報が捨てられる可能性が生じた。

 

ということである。

ひえー、テレビ超強い時代からは考えられないね。

 

そして、その情報の取捨選択の結果、

それぞれの好みの情報をカスタマイズした各個人が完成した!

 

これじゃあ、私たちの世代で「みんなが知っている曲」の数が少なくなるのも無理ない希ガス

 

結局、わたし達はおっさんになっても「Butter-Fly」を歌うの?

 

いや、歌わざるを得ないと思いますよ、わたしゃ。

知らない人とでもカラオケを楽しみたいなら。

 

正直、羨ましいんだよな。

みんなの知っている曲が沢山ある上の世代が。

だって絶対正直楽しいでしょ。知っている曲が沢山あるカラオケの方が。何も考えなくても楽しい。

そりゃあ、自分の知らない曲と出会うチャンス!とか、なんとか工夫して楽しむ方法は色々あると思いますよ。

 

だけど、

 

知らねえ人間が歌っている知らねえ曲を誰が聞きてえんだ!!!

 

という不文律、やっぱりあるじゃん。

そしたら、おっさんになってもゴキゲンな蝶になるしかないよね!という話。

 

まあ、知らねえ人間とカラオケに行かなきゃいいじゃん!で終わる話なのかもしれないけれど。本当にそれはそう。

 

さいごに

まあ、わたしはこんな記事を書いておいてなんではあるが、知っている人間とカラオケに行く際はバリバリ自分の趣味の曲を歌う。

ごめんてお友達。だから私も全然気にならないよ、心配しないでお友達。

 

だから、わたしはおっさんになってもゴキゲンな蝶になるし、イケナイ太陽にもなる覚悟だってもちろんある。NA~NA~NA~NANANA~NANA~する覚悟だってある。

 

え?26歳は既におっさんだって?うるせえ